石井修道先生と椎名宏雄老師との対談 

『中国禅と道元禅』〜中国禅とのつながりを考える~

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1.対談のタイトルについて                   

龍泉院参禅会50周年の記念講演のタイトルは「洞山良价禅師の千百五十回遠忌に想う」と決まり、次に椎名老師と石井先生との対談のタイトルをどうするか、即ち、何についてお二人で話し合っていただくかについて、椎名老師と小畑代表と検討に入りました。

ご老師から石井修道先生の駒澤大学での退任記念講演の論文が参考になるのではないかとのお話がありましたので、早速『駒澤大学佛教学部論集』第45号を取り出し読んでみました。タイトルは「中国禅と道元禅」でした。内容的には石井先生のご専門の中国禅宗史からみた場合、道元禅師の禅と中国禅とは、連続している面と非連続の面が見受けられると指摘され、連続面と非連続面について、それぞれ具体的に述べられた論文でした。
今回「洞山良价禅師千百五十回遠忌」を取りあげたのは、日本曹洞宗では中国禅の代表格である洞山良价禅師がいかに重視されていないか、即ち、中国禅と非連続である面を世に知らしめかったためでもあります。

検討の結果、対談のタイトルは石井修道先生の退任講演のお題をそのままいただいて『中国禅と道元禅』とし、サブタイトルとして「中国禅とのつながりを考える」といたしました。石井先生には学問的立場から、椎名老師からは宗教的立場から、中国禅と道元禅とのつながりを語っていただくことになりました。

10月30日午後2時半に石井修道先生の記念講演が終わり、休憩となりました。この間に次の石井先生と椎名老師との対談の準備が行われました。

2.道元禅師入宋時の禅宗について

 MG 8024JPG 1対談の最初は石井先生から、道元禅師が入宋された当時の中国の禅宗の様相についてのお話がありました。

道元禅師は『辦道話』の巻で、「見在大宋には臨済宗のみ天下にあまねし」と述べられている通り、当時の中国は臨済宗、それも大慧派が大きな勢力をもっていました。道元禅師がお会いになられた方も大慧派の人が多く、大慧派の方が住持することの多かった天童山で、曹洞宗の如浄禅師がたまたま住持されている時に、道元禅師が出会われたので、日本に曹洞宗を持ってこられることになったのです。
道元禅師が入宋する百年前に、臨済宗の大慧宗杲が確立した「看話禅」と曹洞宗の宏智正覚が確立した「黙照禅」が二大潮流を形成していました。だが「黙照禅」には一つの弊害が生まれてきました。それは「ただ坐ればよい」という中に悟を持込まない風習が生まれてきたのです。大慧はこれを「黙照邪禅」と批判しました。
大慧が「黙照邪禅」を克服する過程の中で、「看話禅」が生まれてくるのです。それは紹興4年に、福建省の雪峰山で眞歇清了や慧照慶頂の指導を受けた人々が、大慧のところにやって来て、大慧が見るには、彼らは悟が欠けていると感じたのです。悟がなければ真の禅ではないという考えから、その克服のために看話禅を打ち立てたと言われています。
教学的にいうと、大慧は不覚から始覚を経て本覚に還るという構造を設立したことになります。これは経験主義から見るとわかりやすいのです。お釈迦さまは悟られる以前は迷っておられた。35歳で悟られ、それ以降、多くの弟子達に悟を伝えられたのです。
お釈迦様の例からも、悟という経験がなければ、仏教は成立しないという考え方にあわせれば、大慧の黙照禅批判は非常に的を得てわかりやすかったのです。
それでは道元禅師は大慧が批判した「黙照邪禅」を継承されたかというと、私はそんなことはあり得ないと思います。批判されたものを受け継ぐ人はいないと思います。でも大慧の禅と道元禅は全く違います。大慧の禅は「悟れ悟れ」と言いますが、道元禅は「悟れ悟れ」と言うことはありません。本証妙修ということになります。悟の立場から坐禅をすることになります。
私は道元禅師の最大の批判の相手は「黙照禅」ではなく、「黙照邪禅」ではなかったかと思います。道元禅師は大慧とは異なった意味で本証妙修という主張をされたのだと思います。
「仏性」の巻には、衆生には仏性がない。仏性は仏が持っているものであり、仏という性は仏である時に初めて現れるのだと述べられています。臨済宗の迷いを転じて悟を得るという発想ではなく、本来の悟をそのままに受用しようとする新しい考え方は、「黙照邪禅」の克服でもあったと思います。日本達磨集出身の人達の中には、修行を軽んずる人達がいて、これを道元禅師の世界に導くことに大変ご苦労されたのではないかと思います。
道元禅師が入宋した時は、大慧禅が大変盛んな時代でしたので、道元禅師もその影響を受けましたが、修行と悟についての考え方が全く異なる世界を道元禅師は創られました。宋代には「黙照禅」と「看話禅」という二大潮流がありましたが、私は「黙照邪禅」の克服こそ、道元禅師の目指したところではないかと思います。門下の指導においても同様のことが言えたのではないでしょうか。

3.禅の中心は行である

椎名老師からは次のようなお話がありました。

禅は坐禅だけではありません。道元禅師が一番重んじられたのは「行」です。行が骨子で頭ではないのです。栄西禅師も行を重んじられましたが、むしろ戒律を非常に重んじられました。しかし、道元禅師は16条の戒で充分であるとされ、むしろ生活の規範である清規を重んじられました。曹洞禅が存在している大きな理由は、形式的なものではない精神的なものが生かされているからです。これを生活の中に活かして行くことが強調されているところに、曹洞禅の非常に強いところがあると思います。

4.道元禅師の公案禅の捉え方

 MG 8019JPG 1次に「公案禅」について石井先生から次のようなお話がありました。

道元禅師も公案を集めたテキストとして『真字正法眼蔵』があります。数は300則ありますので『正法眼蔵三百則』とも言います。道元禅師が若い時にまとめられてものです。ただ集められた公案は悟るためのものではなかったと思います。大慧の禅は「無字」に集約されると言われ、無の一字に全身全霊を集中させるという看話禅が成立するわけです。
小川隆先生(駒澤大学総合教育研究部)は公案禅と看話禅は違うものだと言われています。公案の参究方法は大まかに「文字禅」と「看話禅」の二つに分けられます。公案禅は公案を使用して宗旨を述べるので、『碧厳集』とか『従容録』とかは公案禅ですが、文字禅と言えます。『真字正法眼蔵』も文字禅にあたります。看話禅は大慧の禅で「無字」の公案を用いて悟に向かわす禅です。
ここで興味深いのは、道元禅師が公案を集められる時、中国の禅籍通りに集められていない例が、少なからずあることです。例えば有名な「磨塼作鏡」の話があります。中国禅では「瓦を磨いても鏡にはならない」という話ですが、道元禅師は瓦を磨くと鏡になると仰っているのです。
南嶽懐譲に馬祖道一が参じた時には、既に悟が認められ、その後に「磨塼作鏡」の話が生まれたのです。つまり悟った後の坐禅、悟って以降に行われた坐禅が「磨塼作鏡」の話だという風に、ほんのわずかな言葉、それは原典の二つの箇所を併せて一つの話に作られている訳です。瓦を磨いて鏡になるという話は、道元禅師の創られた話ですが、そこにこそ、道元禅師の思想が込められているのだと思います。
中国禅は坐禅をしている主体に欠けたものがあるから、それを補おうとするのですが、道元禅師は坐禅がそのまま悟で完成しているという立場です。だから瓦を磨いて鏡になるのです。道元禅師の公案集は中国の典籍のままでないところに、非常に大きな意味があるのだと思います。
このように石井先生からは、学問的にみると、道元禅は中国禅とは必ずしも連続していない非連続の面があることを指摘されました。

5.唐代の純禅へ戻ることを目指した道元禅師

次に椎名老師から禅の骨子は「行」と「実践」に尽きるというお話がありました。

今、公案禅についてのお話がありました。公案は「両手をたたくと音が出ます。では片手ではどんな音が出ますか」という単純なものから、古人の含蓄のある言動を、頭ではなく体全体でぶつかって行く、これが公案を会得することだと思います。これは非常に大事ではありますが、看話禅・黙照禅が出る前の唐の時代の禅は純禅と言われています。
 MG 8030JPG 1純禅の時代の禅は単純で分かりやすく、明快にすることが問題とされていました。しかし宋の時代になると、仏教が国家と結びつくようになり、権力や経済的なものと結びつくようになり、寺院はご祈祷を重んじたり、観光を大切にして人を集めて、経済性を重んじるようになってきました。
このようにインド時代の仏教と比べて寺院の性格がどんどん変わってきています。しかし、私は寺の基本は修行であり、その中心は禅的には坐禅であると思っています。坐禅を中心とすることを忘れたくないという気持ちで、参禅会を50年間やってきました。
お釈迦様のいたインドの寺院は何が中心であったか、それを道元禅師はどういう風に取り入れようとされたのかを考えています。道元禅師は純粋な釈尊の教えを護ることをめざした唐の時代の禅に戻る、釈尊の精神に戻ることを、宗教者として基本にされていたのではないかと思います。そうであるならば、我々も少しでも道元禅師の精神に近づく、あるいは護ろうとしなければならない。
中国禅では五家とか七宗とかが興って、複雑な宗派的な動きが盛んになりましたが、道元禅師はそのようなものは全く排斥されています。『正法眼蔵』「春秋」の巻に一番はっきりと述べられていますが、「佛道」や「佛教」では、このような動きを外道の禅だと排斥され、そこに道元禅師の潔癖さ・純粋さと相まって、道元禅師の禅が打ち立てられていると思います。
このように道元禅は宋代の複雑な頭で考える禅ではなく、釈尊の教を純粋に護ろうとした唐代の禅に戻ろうとしたもので、そこには何よりも「行」と「実践」が重んじられたものであったと、椎名老師は締め括っておられました。

対談が終わり、最後に小畑代表から次のようなご挨拶がありました。
龍泉院参禅会は50名足らずの小さな会ですが、50年間続いています。この間、100名入って定着するのは一人ぐらいです。今、コロナ禍で定例参禅会をお休みしなければならない時期もありましたが、コロナ以前は一回も休んだことがありません。参禅会のこれからの50年はどのようになるのかと、ご心配する方もいらっしゃいますが、仏教は2500年も続いてきたものですから、今後も続いて行けると思います。
50周年の行事は皆様のご協力により無事円成いたしました。本当に有難い次第です。両先生には御礼を申し上げ、更に参禅会員の皆様、本日お見えになられた皆様に厚く御礼を申し上げます。

これで10月30日に行われた「洞山良价禅師千百五十回遠忌」の各種行事が全て円成いたしました。(五十嵐記)