今月の提唱

『正法眼藏』「身心學道」の巻(4)

IMG 3548JPG 1學道は恁麼なるかゆゑに、牆壁瓦礫これ心なり。さらに三界唯心にあらす、法界唯心にあらす、牆壁瓦礫なり。感通年前につくり、感通年後にやふる、拕泥滞水なり、無縄自縛なり。玉をひくちからあり、水にいる能あり。とくる日あり、くたくる時あり、極微にきはまるときあり。露柱と同参せす、燈篭と交肩せす、かくのことくなるゆゑに、赤脚走して學道するなり、たれか著眼看せん。翻巾斗して學道するなり、おのおの随他去あり。このとき、壁落これ十方を學せしむ、無門これ四面を學せしむ。
 發菩提心は、あるひは生死にしてこれをうることあり、あるひは涅槃にしてこれをうることあり、あるひは生死涅槃のほかにしてこれをうることあり。ところをまつにあらされとも、發心の、ところにさへられさるあり。境發にあらす、智發にあらす、菩提心發なり、發菩提心なり。發菩提心は、有にあらす無にあらす、善にあらす惡にあらす、無記にあらす、報地によりて縁起するにあらす。天有情はさためてうへからさるにあらす。たたまさに時節とともに發菩提心するなり、依にかかはれさるかゆゑに。

今月の所感

今月のご提唱の最初に、「學道は恁麼なるかゆゑに、牆壁瓦礫これ心なり」とあります。牆壁瓦礫が心であると言われているのです。前回までは心とは「山河大地・日月星辰」であるとのお示しでしたが、今回は心とは「牆壁瓦礫」に変わりました。
「山河大地・日月星辰」は大自然がつくり出したものですが、「牆壁瓦礫」は人間がつくり出したものです。「山河大地・日月星辰」から比べるとちっぽけなものにすぎません。


IMG 3550JPG 1「牆壁瓦礫」が心であると言われたのは、六祖慧能の法嗣である南陽慧忠国師です。今ご提唱いただいている「身心學道」の巻の少し後の箇所に、
  古仏心といふは、むかし僧ありて大証国師にとふ、「いかにあらんかこれ古仏心」。
  ときに国師いはく、「牆壁瓦礫」。
とあります。同じ内容は「古仏心」の巻にも見えます。
因みに、ここではある僧が南陽慧忠に問うたことになっていますが、『宗門統要集』の南陽慧忠国師の章では、
  師因洞山問、「如何是古佛心」。師云、「墻壁瓦礫是」。(師因みに洞山問う、「如何なるか是れ古佛心」。師云く、「墻壁瓦礫是」。)
とあり、南陽慧忠に問うたのは洞山良价禅師となっています。

 

続いて、「さらに三界唯心にあらす、法界唯心にあらす、牆壁瓦礫なり」。三界唯心とは欲界・色界・無色界の現象世界は、心だけから生じたものであるという『華厳経』の中心的な思想です。法界唯心も、われわれの住んでいる宇宙は、心と一つのものであるという仏教思想です。これらの仏教思想を道元禅師はあえて否定されているのです。
これは〝牆壁瓦礫〟は自分の目で見て心で感じ、自分で体験するものであるのに対して、「三界唯心・法界唯心」は机上で勉強して得られた学問上の知識です。道元禅師は机上の知識よりも実体験を重視する立場から、「牆壁瓦礫」という表現の方が、心というものをよく表していると捉えられたからなのでしょうと、明石方丈様は話されていました。
ただ『正法眼蔵』「三界唯心」の巻では、
  唯心は一二にあらず、三界にあらず、出三界にあらず、無有錯謬なり。有慮知念覚なり、無慮知念覚なり。牆壁瓦礫なり、山河大地なり。
と述べられており、無常なる現象世界そのものが心であると示されています。

 

次に「感通年前につくり、感通年後にやふる」とあります。これは洞山良价禅師の法嗣の疎山匡仁(光仁)禅師の語です。道元禅師の真字『正法眼蔵』の285則には、
  疎山示衆云、「病僧咸通年已前、会法身辺事、咸通年已後、会法身向上事」。(疎山衆に示して云く、「病僧、咸通年已前、法身の辺事を会し、咸通年已後、法身の向上事を会す」。)
とあります。これは疎山が咸通年間(860〜873)以前には仏道の真実を会得していたけれども、咸通年間以降には、仏道の真実を得たという境地をも乗りこえてしまったという意味です。
〝牆壁瓦礫〟と心とが一つだという、きわめて現実的な人間的な行いは、疎山の咸通年前には仏になり、咸通年後にはその仏の境地を乗りこえてしまったという、きわめて現実的な生き方と、共通性があることを道元禅師は見て取ったのでしょう。

 

IMG 3554JPG 1次に「拕泥滞水なり、無縄自縛なり」。拕泥滞水とは、べとべとの泥まみれになる。理法を使ってあれやこれやと説くことを批判した言葉です。無縄自縛とは、既成の観念にとらわれていることの自覚すらない者を批判した言葉です。則ち三界唯心とか法界唯心という既成の観念に縛られていては、理法を使ってあれやこれやと仏道を説いたり、既成の観念にとらわれているとの自覚すらないことになるのです。

 

「玉をひくちからあり、水にいる能あり」。玉をひくちからありという語は、趙州從諗禅師と弟子との問答に出てくる言葉です。『景徳傳燈録』の趙州從諗の章に、
  大眾晚參師云、「今夜答話去也。有解問者出來」。時有一僧、便出禮拜。師云、「比來拋塼引玉、却引得箇墼子」。(大眾晚參に師云く、「今夜答話去也。問を解する者有らば出で來るべし」。時に一僧有り、便ち出でて禮拜す。師云く、「比來、拋塼引玉、却って箇の墼(けき)子(す)を引得せり」。)
とあります。「拋塼引玉」とは、粗末な材料を使って非常に立派なものをつくる、エビで鯛を釣るという意味です。また、水にいる能ありという語は、『涅槃経』にある言葉です。
  是時諸人、悉共入水求覓是寶。(是の時諸人、悉く共に水に入り是の寶を求覓す。)
智慧のある人は静かに水の中に入って、水の中から非常に貴重な真珠を得てくるという文章がありますが、それを「水にいる能あり」、水に入って貴重な真珠を得てくるような力がある。

 

以上のことは何を言っているかというと、三界唯心とか法界唯心という仏教の観念ばかりを振り回すのではなく、牆壁瓦礫これ心という現実的な生き方をして行くことによって、「玉をひくちからあり、水にいる能あり」、玉や真珠などの仏宝、即ち悟を得ることができるということではないでしょうか。

 

しかし「とくる日あり、くたくる時あり、極微にきはまるときあり」。このようにして得た玉や真珠も、火で溶ける時もあり、砕けて微細な粒子に極まる時もある。

「露柱と同参せす、燈篭と交肩せす」。だから露柱や燈篭と違ってたえず変化するのである。

 

「かくのことくなるゆゑに、赤脚走して學道するなり、たれか著眼看せん」。赤脚走とは裸足で走り回ることです。走り回ることが、どうして学道することになるのかというと、『天聖廣燈録』の智門光祚の章に、
  問、「如何是佛」。師云、「蹋破草鞋赤脚走」。(問う、「如何なるか是れ佛」。師云く、「草鞋を蹋破して赤脚走す」。)
というのがあり、仏道を学とは、草鞋を踏み破るほど走り回り、長年行脚修行を重ねることであるという意味です。

「翻巾斗して學道するなり」。ドンボ返りして学道することもある。面白いですね。

 

IMG 3562JPG 1このように〝牆壁瓦礫〟の心でもって学道して行くと、「壁落これ十方を學せしむ、無門これ四面を學せしむ」。これは『宗門統要集』の雲門文偃の章に見える、
  師到灌溪、有僧舉溪語云、「十方無壁落、四面亦無門。淨躶躶、赤灑灑。沒可把」。(師灌溪に到る、僧有り溪の語を舉して云く、「十方壁落無く、四面亦た門無し。淨躶躶、赤灑灑。把る可き沒し」。)
によるものです。
〝牆壁瓦礫〟の心でもって学道して行くと、壁や垣根等によってあらゆる方向に広がっている世界を勉強することができる。その結果、四面には門が無い、即ち学ぶことに礙ものがなくなることになるのです。

 

〝牆壁瓦礫〟の心でもって学道することについては以上で終り、次に「身心学道」の第一回目に出てきた「発菩提心」「赤心片々」「古仏心」「平常心」についての拈提に移ります。

 

先ず「発菩提心」について、「生死にしてこれをうることあり、あるひは涅槃にしてこれをうることあり、あるひは生死涅槃のほかにしてこれをうることあり」。菩提心は日常生活におけるごく普通の生き死にの場面で巡り合うこともあるし、あるいは仏道修行がすんで非常に落ち着いた境地に入って後に起こす場合もあるし、それ以外の場面で起こる場合もある。


従って、「ところをまつにあらされとも、發心の、ところにさへられさるあり」。発心はどこの場所でなければならないという制限はない。


「境發にあらす、智發にあらす」。境發とは環境によって起こすことです。環境から菩提心が生まれるわけではない。智發とは人間の頭の働きで起こすことです。頭の働きで起こるものでもない。


だから「菩提心發なり、發菩提心なり」。ただある日突然菩提心が起こるし、あるいはただ菩提心を起こすのである。


「たたまさに時節とともに發菩提心するなり、依にかかはれさるかゆゑに」。菩提心とは結局、ただ時期が来さえすればきっと起こる。時期とは何時か。それは今起こるのである。機が熟したから起きるというものではなく、起こそうと思えばいつでも起こせるのです。菩提心を起こすには、その住む環境には何の関係もないからです。環境が悪いから起こせない、良い環境になったら起こそうというのは言い訳に過ぎないのです。

今月のお知らせ

IMG 3565JPG 1・今月の定例参禅会はGW前半の三連休の中日に当たりました。空は快晴で爽やかな風が吹き、非常に気持ちの良いお天気でした。境内にはサツキやシャクナゲやアヤメや藤などの花々が、今を盛りに咲き誇り、まるで花の楽園にいるような感じがしました。また裏山には筍の傍にひっそりと金蘭が黄色い花を咲かせていました。これは明石方丈様の日頃のお手入れの賜物ではないでしょうか。感謝!感謝!です。


・例年は4月の定例参禅会の後に筍堀が行われていましたが、今年は3月にずらしました。しかし3月の例会の時には全く筍は顔を題しておらず、中止となりました。そこで一部の有志の方が例会の後に筍堀を行いましたが、筍は無数に顔を出しており、とても採りつくすことはできない様子でした。


・今月から齋藤正好さんが先導のお役を務めることになりました。頑張ってください。

 

小畑(二)年番幹事からのお知らせ
・4月8日(月)の降誕会の参加者は10名でした。
・4月19日(金)の作務の後で、松井典座による「筍ご飯をいただく会」が催されました。
・6月2日(日)に一日接心が行われます。参加される方は午前8時までに集合してください。昼食はお弁当とします。現在の参加予定者は12名です。

 

河本からのお知らせ
・自由参禅は毎回10名ほど参加されています。新しい方も毎回1~2名見えます。

 

IMG 3575JPG 1松井さんからのお知らせ
・筍を掘った穴はキチンと埋めてください。
・裏山に金蘭が咲いています。

 

杉浦『明珠』編集委員長からのお知らせ
・毎週一回は椎名老師のところに伺っていますが、大変お元気です。精力的に「従容録に学ぶ」を執筆されています。

 

明石方丈様からのお知らせ
・「筍ご飯をいただく会」の時は四大不調で失礼を致しました。関係され方々はご苦労様でした。

 

今月の司会者 小畑二郎
今月の参加者 15名
来月の司会者 小畑二郎