今月の提唱

『正法眼藏』「身心學道」の巻(3)

IMG 3525JPG 1寶地もあるへし。萬般なりといふとも地なかるへからす、空を地とせる世界もあるへきなり。日月星辰は、人天の所見不同あるへし、諸類の所見おなしからす。恁麼なるかゆゑに、一心の所見、これ一齊なるなり。これらすてに心なり。内なりとやせん外なりとやせん、来なりとやせん去なりとやせん。生時は一點を増するか、増せさるか。死には一塵をさるか、さらさるか。この生死、およひ生死の見、いつれのところにかおかんとする。向来はたたこれ心の一念二念なり。一念二念は、一山河大地なり、二山河大地なり。山河大地等、これ有無にあらされは、大小にあらす、得不得にあらす、識不識にあらす、通不通にあらす、悟不悟に變せす。
かくのことくの心、みつから學道することを慣習するを、心學道といふと決定信受すへし。この信受、それ大小有無にあらす。いまの知家非家捨家出家の學道、それ大小の量にあらす、遠近の量にあらす。鼻祖鼻末にあまる、向上向下にあまる。展事あり七尺八尺なり。投機あり爲自爲他なり。恁麼なるすなはち學道なり。

今月の所感


IMG 3532JPG 1前回のご提唱では、心とは「山河大地・日月星辰」であるとのお示しがありました。その後に山河大地について色々な拈提があり、最後に「地はかならすしも土にあらす、土かならすしも地にあらす。土地もあるへし、心地もあるへし、寶地もあるへし」とあり、地についての見解が述べられていました。土から成った土地だけでなく、心の境地という意味での心地をいうこともあり、また宝が存在する貴重な境地という意味での宝地というものもあるのだと、お示しになられています。

さらに今月のご提唱では、「空を地とせる世界もあるへきなり」と示されています。土とは無縁な空も地であるというのです。地上の人間や動物や植物は土のある所が地ですが、空を飛ぶ鳥にとってはこの地面が自分たちの世界ではなく、空を飛んでいる時が自分たちの世界にいるのだということです。


山河大地に次いで日月星辰についても、「人天の所見不同あるへし、諸類の所見おなしからす」とあり、色々な見方があるのだと述べられています。「現成公案」の巻でも、水について「宮殿のごとし、瓔珞のごとし」と述べられています。魚にとって水は宮殿であり、天人は水を瓔珞(宝で飾られた池)と見るということです。見る側の主体が異なると、その主体に応じて見るところも変わるという「一水四見」の譬えです。

 

次に「恁麼なるかゆゑに、一心の所見、これ一齊なるなり」とあります。
一つの心で見られたところは全く同じことだという意味ですが、ここのところがよく理解できないところです。見る側の主体の違いによって見え方は異なるけれども、心で見れば同じことだということでしょうか? このような道元禅師一流の見解が、凡人にはなかなか馴染めないところなのです。

 

IMG 3535JPG 1次に「これらすてに心なり。内なりとやせん外なりとやせん、来なりとやせん去なりとやせん」とありますが、この箇所も言葉はやさしいですが、意味するところはなかなか分かりづらいところです。
「これらすてに心なり。内なりとやせん外なりとやせん」、外界のさまざまな異なる世界も、一つのものとしてとらえる立場の心は、この世界の中の内側として受け取ったらよいのか、あるいは外側として受け取ったらよいのだろうか。
仏教では心というものと、外界の世界が一つのものであり、三界はすべて一心によるという「三界唯心」の考え方があります。これは『華厳経』や『楞伽経』に由来するものです。外界のものは全て自分の心がつくりだしたものであるとすると、心は世界の内なのか外なのかという関係を乗り越えたところにあることになります。
明石方丈様は、司馬遼太郎の『峠』に登場する長岡藩の河合継之助が、陽明学を深く学んでいたことをお話されました。中国の明代に王陽明がおこした陽明学は、禅宗の影響を強く受けており、三界唯心の考え方も取り入れているとのことでした。

 

次に、「向来はたたこれ心の一念二念なり」とあります。
これまで述べてきたことはすべて「心」である。心の働きである。心の働きの一念二念である。過去をふりかえって見る時、心が瞬間、瞬間に感じたことが残っているにすぎない。
「一念二念は、一山河大地なり、二山河大地なり」、一つの瞬間に自分の心に浮かんだこと、経験したことが、または別のとらえ方をするならば、そこには山があった、河があった、大地があったというような外界の世界が存在したことに外ならない、この瞬間にこの山河大地があり、あの瞬間にあの山河大地あったということになるのです。

 

IMG 3536JPG 1「山河大地等、これ有無にあらされは、大小にあらす、得不得にあらす、識不識にあらす、通不通にあらす、悟不悟に變せす」。
「山河大地等」は、普通われわれはあるものだと思っています。しかし先ほど瞬間・瞬間に山河大地あるということでしたから、われわれが一所懸命に生きておればこそ、その舞台として、山があり、河があり、大地があるともいえるのです。だから本質的にそういうものが恒常的に存在しているかどうかとなると、断定できないわけで、そのことを「これ有無にあらされは、大小にあらす、得不得にあらす、識不識にあらす、通不通にあらす、悟不悟に變せす」と述べられています。
つまり、山が大きいか小さいかは断定できないし、山河大地の実体を会得したかしないかとかは問題でないし、わかったかわからないかとでもないし、完全に理解したかどうかでもないし、その実態を十分に悟ったかしないかでもないということです。

 

以上のことを受けて、「かくのことくの心、みつから學道することを慣習するを、心學道といふと決定信受すへし」とあります。
ともあれ、そのようなとらえどころのない心を使って仏道を学ぶことを慣いとする時、それを心学道というのだと、道元禅師は「心学道」をこのように定義されているのです。

 

「いまの知家非家捨家出家の學道、それ大小の量にあらす、遠近の量にあらす。鼻祖鼻末にあまる、向上向下にあまる。展事あり七尺八尺なり。投機あり爲自爲他なり」。
現在住んでいる家庭生活を離れて仏道を学ぶ態度は、「それ大小の量にあらす、遠近の量にあらす」、その態度が偉大だとか、小さいとかの比較を乗りこえておるし、「遠近の量にあらす」、またそのような態度は他人事であって自分からは遠い出来事であるとか、逆に自分の目先のさしせまった問題であるとかの比較を乗りこえておるし、「鼻祖鼻末にあまる」、過去において一番古い仏祖、あるいは一番近い仏祖という方々の範囲を乗りこえておるし、「向上向下にあまる」、仏向上の仏道修行にはげむ、あるいは悟りを得た後に人々の救済にはげむという、二つの場面も乗りこえておるし、「展事あり七尺八尺なり」、学人がこの境地を述べることも七尺八尺という個別のものであり、「投機あり爲自爲他なり」、師が弟子の進境に応じて教えを垂れることは、自分自身のためであり、また同時に人のためでもある。出家し仏道を学ぶというのは、以上のようなことだと道元禅師は示されています。

 

このように道元禅師の「心学道」、心による学道、心を通じて仏道を学ぶという場合でも、実態がきわめて複雑であり、単純なものでないことがわかります。なかなか一つの言葉で割り切ることができないものです。

今月のお知らせ


IMG 3537JPG 1境内には少し盛りを過ぎた緋寒桜やハクモクレン、ユキヤナギ、スイセンなどが咲き誇っています。しかしこのところ天候不順で肌寒い日が続き、桜の開花宣言が遅れているように、龍泉院の裏山の筍も全く顔を出していません。
ここ数年は地球温暖化のため3月末には筍が生え揃い、4月の定例参禅会の時には既に大きく育ち過ぎていいました。そのため今年の筍堀は3月の定例参禅会の後に行うことにしましたが、予想が大きく外れて、裏山には一本も筍は見えず中止となりました。
今週もあまり天候に恵まれていませんが、4月8日の降誕会の時には、筍は十分に顔を出していると思います。降誕会には筍狩りを兼ねて多くの方がご参加くださればと思います。

 

小畑(二)年番幹事からのお知らせ


・今日の筍堀は中止とします。
・降誕会の参加希望者は11名です。お役の方は午後1時までにご参集ください。開始は午後2時からです。

松井さんからのお知らせ


・4月19日(金)の作務が終わった後に、筍飯を食べる会を行います。作務班以外の方のご参加をお待ちしています。

杉浦『明珠』編集委員長からのお知らせ


・『明珠』81号が発行されました。今回から印刷は柏市内の秋元印刷で行うことにし、従来より3万円安くなりました。

五十嵐『口宣』担当からのお知らせ


・『口宣』24号ができました。令和3・4年における椎名老師の口宣です。老師はお怪我のため令和5年の1月からは坐禅はできなくなりましたので、これが老師最後の口宣となります。

明石方丈様からのお知らせ


・気候変動が大きく、人間の心にも影響を及ぼすのではないかと思います。皆様は十分にお気をつけて下さい。

 

今月の司会者 小畑二郎
今月の参加者 18名
来月の司会者 小畑二郎