平成二九年一月定例参禅会報告 プリント

今月の提唱

『正法眼蔵』「看經」の巻(2)

img_9092.jpg-1.jpg曹渓古仏の直指なり。この念経僧の念は、有念無念等にあらず、有無倶不計(有無倶に計せず)なり。ただそれ従劫至劫手不択巻従昼至夜無不念時(劫従り劫に至るも、手に巻を択てず、昼より夜に至るも念ぜざる時なし)なるのみなり、従経至経無不経(経より経に至りて、経ならざる無し)なるのみなり。
第二十七祖東印度般若多羅尊者、因東印度国王、請尊者斎次、国王乃問、諸人尽転経、唯尊者為甚不転。祖曰、貧道出息不随衆縁、入息不居蘊界、常転如是経、百千万億巻、非但一巻両巻。(第二十七祖、東印度の般若多羅尊者、因みに東印度国王、尊者を請して斎する次、国王乃ち問う、諸人尽く転経す、唯だ尊者のみ甚としてか転ぜざる。祖曰く、貧道は、出息、衆縁に随わず、入息、蘊界に居せず、常に如是経を転ずること、百千万億巻なり、ただ一巻・両巻のみに非ず。)
般若多羅尊者は、天竺国東印度の種草なり。迦葉尊者より第二十七世の正嫡なり。仏家の調度ことごとく正伝せり。頂■(寧+頁)、眼睛、拳頭、鼻孔、拄杖、鉢盂、衣法・骨髄等を住持せり。我等が曩祖なり、我等は雲孫なり。いま尊者の渾力道は、出息の衆縁に不随なるのみにあらず、衆縁も出息に不随なり。衆縁たとひ頂■(寧+頁)眼睛にてもあれ、衆縁たとひ渾身にてもあれ、衆縁たとひ渾心にてもあれ、擔来擔去又擔来(擔い来り擔い去り、また擔い来る)、ただ不随衆縁なるのみなり。不随は渾随なり、このゆえに築著磕著なり。出息これ衆縁なりといへども、不随衆縁なり。無量劫来、いまだ出息入息の消息をしらざれども、而今まさにはじめてしるべき時節到来なるがゆえに、不居蘊界をきく、不随衆縁をきく。衆縁はじめて入息等を参究する時節なり。この時節、かつてさきにあらず、さらにのちにあるべからず、ただ而今のみにあるなり。
蘊界といふは、五蘊なり。いはゆる色・受・想・行・識をいふ。この五蘊に不居なるは、五蘊いまだ到来せざる世界なるがゆえなり。この関捩子を拈ぜるゆえに、所転の経、ただ一巻両巻にあらず、常転百千万億巻なり。百千万億巻は、しばらく多の一端をあぐといへども、多の量のみにあらざるなり。一息出の不居蘊界を、百千万億巻の量とせり。しかあれども有漏無漏智の所測にあらず、有漏・無漏法の界にあらず。


今月の所感

img_9091.jpg-1.jpg平成29年になり年番幹事が刑部さん・佐藤さん・小林さんから松井さん・山桐さんに代わりました。刑部さん・佐藤さん・小林さん1年間ご苦労様でした。松井さん・山桐さん今年1年よろしくお願い致します。
今月のご提唱ではまず念経僧についての道元禅師の見解が述べられています。六祖慧能より法達は念経僧であると称されましたが、この「念」とは経典の趣旨を常に心に持っているという意味で、想念が心の中にあるとかないとかということとは関わりのないことなのです。従って経典を手に持っていなくても、心に経典の趣旨が備わっていれば、常に手に経典があることと違わないのです。法達は昼夜を問わず法華経を常に心の中に持っていて、それが絶えることのない状態に達したので、六祖慧能は法達を念経僧と認めたのです。
つまり仏教の経典は数多あっても、その経典の趣旨をすべてわかっていれば、経典を手にとって読む必要はなくなるわけですが、次ににそのような例として第二十七祖の般若多羅尊者の話が引かれています。
因みに中国に正伝の仏法を将来された達摩大師は西天二十八祖ですから、般若多羅尊者は達摩さんの師匠になるわけです。尊者が東印度国王に招待され食事を供養された時、国王から「僧侶の方々は皆さん経典を読んでおられますが、あなただけはお読みにならないのはどういうわけですか」と問われたのです。
すると尊者は「自分の吐く息は五官の対象となる周囲の環境には煩わされない。自分の吸う息は五蘊からなる思慮分別の世界には拘束されない。吸う息や吐く息が周囲の環境や思慮分別の世界とは独立独歩のように、自分自身も独立独歩の修行をして、常にあるがままの経典を転ずることは百千万億巻にあたる。ただの一巻や二巻の経典を講ずるような狭い範囲のものではありません」と答えたのです。
即ち般若多羅尊者は念経僧のようにすべての経典の趣旨が心の中にあるから、ただの一つや二つの経典を講ずることはなかったのです。因みに、この般若多羅尊者に関する話は『五燈會元』の「二十七祖般若多羅尊者」の章や『宏智禪師廣錄』卷第二などに見えるところです。
img_9090.jpg-1.jpgこの般若多羅尊者の話引用を受けて、道元禅師は般若多羅尊者と国王の問答の中の「出息不随衆縁」について詳しく拈提されています。
まず「尊者の渾力道は、出息の衆縁に不随なるのみにあらず、衆縁も出息に不随なり」をとりあげ、尊者が伝えたいことは、自分の吐く息が周りの環境に従わないように、周りの環境も自分の吐く息には従わない。即ち自分の生き方は周囲の環境から独立独歩で、周囲の環境に惑わされず、一人前の人間として修行している。しかし衆縁も出息に不随しているから、周囲の環境も独立独歩で素晴らしい様相を呈しているということになるのです。
このように自分自身の生き方も周囲の環境も独立独歩ではあるけれども、道元禅師は続けて「不随は渾随なり、このゆえに築著磕著なり」と続けて述べられています。実はここがすごいところなのです。
「不随は渾随なり」とは、周囲の環境に独立独歩で引きずり回されない、周囲の環境に拘束されないということは、取りも直さず周囲の環境に従ってゆくことである、という意味です。一見矛盾しているように見受けられます。独立独歩で生活していることが、どうして周囲の環境と歩調を合わせて生活していくことになるのでしょうか。
それは独立独歩で生活すると言っても、周囲の環境を無視して勝手気ままに生きて行くことではありません。他人や世間の見方を鵜吞みにせず、周囲の環境をよく見極めながら、自分と周囲の環境とどのように調和を図ってゆくべきかという、確固とした自分自身の考え方を打ち立てて生活してゆくことではないでしょうか。
でもこの後、道元禅師は独立独歩の生活も「このゆえに築著磕著なり」と結ばれています。つまり独立独歩の生活も実際はすんなりとは行かず、あっちにぶつかり、こっちにぶつかりしてゆくことになるというのです。物事は観念的にはわかっていても、実践的にはすんなりと行かないものです。たからこそ実践的な修行が必要になるのではないでしょうか。修證一等なりです。


松井年番幹事からのお知らせ

・平成29年の年間行事が決まりましたので行時予定表を配布します。

    年間行事予定表はこちら>>


・2月12日(日)午後2時より「うどん市」で新年会を開催いたします。現在参加予定者は16名です。参加を希望される方は年番幹事までお知らせ下さい。

     新年会案内状はこちら>>

小畑代表幹事からのお知らせ

・昨年の年番幹事の刑部さん、佐藤さん、小林さん、一年間ご苦労様でした。感謝申し上げます。今年の年番幹事は松井さん、山桐さんにお願いすることになりました。よろしくお願い致します。
・坐禅は本来の自己を見つける場所です。月例参禅会・自由参禅になるべく多くの方が参加されることを希望します。


ご老師からのお知らせ

img_9083.jpg-1.jpg・AEDの講習を受講された方には受講カードが来ていますので取りに来てください。
・今年も健康に留意して参禅会に参加できるようにしてください。
・暮れの大掃除で参禅会関連の資料を収納する場所を確保しましたが、整理のための段ボール箱を用意して下さい。
・資料の整理にあたっては個人情報の扱いに留意して下さい。
・1月20日(金)は極寒でしたが五人の方が作務にあたってくださいました。まさに自未得度先度他です。
・新年会にはこぞって参加して下さい。

今月の司会者 鈴木 民雄
今月の参加者 29名
来月の司会者 小林 裕次

最終更新日 ( 2018/04/30 月曜日 10:18:31 JST )
 
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