平成二七年四月定例参禅会報告 |
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今月の提唱『正法眼蔵』「梅華」の巻(4)![]() ひとへに嵩山少林の雪漫漫地と參學することなかれ。如來の眼睛なり。頭上をてらし脚下をてらす。ただ雪山雪宮のゆきと參學することなかれ、老瞿曇の正法眼睛なり。五眼の眼睛、このところに究盡せり。千眼の眼睛、この眼睛に圓成すべし。 まことに老瞿曇の身心光明は、究盡せざる諸法實相の一微塵あるべからず。人天の見別ありとも、凡聖の情隔すとも、雪漫漫は大地なり、大地は雪漫漫なり。雪漫漫にあらざれば、盡界に大地あらざるなり。この雪漫漫の表裏團 、これ瞿曇老の眼睛なり。 しるべし、華地悉無生なり、華無生なり。華無生なるゆゑに、地無生なり。華地悉無生のゆゑに、眼睛無生なり。無生といふは無上菩提をいふ。正當恁麼時の見取は、梅華只一枝なり。正當恁麼時の道取は、雪裏梅華只一枝なり。地華生生なり。 これをさらに雪漫漫といふは、全表裏雪漫漫なり。盡界は心地なり、盡界は華情なり。盡界華情なるゆゑに、盡界は梅華なり。盡界梅華なるがゆゑに、盡界は瞿曇の眼睛なり。而今の到處は、山河大地なり。到事到時、みな吾本來茲土、傳法救迷情、一華開五葉、結果自然成の到處現成なり。 今月の所感![]() ついで坐禅中に関しては細かな作法を気にするのではなく、気力が入っているかが問題であると示されました。沢木興道老師は曾て気力の入っていない坐禅は、死んだ坐禅であると喝破されたそうです。丹田濟下に気力を込めて坐ることが肝心であるとのお示しです。 またご老師は坐禅に信が入っているかどうかも問題であるとも述べられました。榑林皓堂先生は「坐禅は信の裏付けがなくては実践できない」、また「長く坐っていると人柄が変わってくる」ともお示しになられたそうです。坐禅は最高の修行であるとの確固たる信念をもって、無心で坐ることにより、信は更に深まるものと思います。 今月の「梅華」の巻には「華地悉無生」と言う語句が出てきます。この語句は華が咲いている大地は尽く生滅の次元を超えている。華が咲くのも空、散るのも空、全てが空であり、縁である。全ては縁起で成り立っているということを現していると、ご老師は述べられました。 即ちこの語句は、仏教の中心思想である縁起説を端的に表現した句であり、三法印の諸行無常・諸法無我の世界を言い表したものであると思います。 小畑代表幹事からのお知らせ・平成26年の『口宣』が冊子となりました。五十嵐さんが録音し、それを登森さんと斉藤さんが文字起こしをし、坂牧さんが表紙の題字や毎月の口宣のタイトルを揮毫してくださいました。御礼申し上げます。 ・5月3日(日)の自由参禅の後に坐禅普及委員会を開催いたします。 ・一夜接心を6月6日(土)・7日(日)で行います。 鈴木年番幹事からのお知らせ![]() ご老師からのお知らせ
来月の司会者 山桐 照夫 |
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最終更新日 ( 2015/06/30 火曜日 15:14:08 JST ) |
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