令和二年五月定例参禅会報告

今月の提唱

『正法眼藏』「空華」の巻(8)

img_2810-1.jpg張拙秀才は、石霜の俗弟子なり。悟道の頌をつくるにいはく、光明寂照遍河沙。この光明あらたに僧堂佛殿廚庫山門を現成せり。遍河沙は、光明現成なり、現成光明なり。
凡聖含霊共我家。凡夫賢聖なきにあらす、これによりて凡夫賢聖を謗することなかれ。
一念不生全體現。念念一一なり、これはかならす不生なり、これ全體全現なり、このゆゑに一念不生と道取す。
六根纔動被雲遮。六根はたとひ眼耳鼻舌身意なりとも、かならすしも二三にあらす、前後三三なるへし。動は如須彌山なり、如大地なり、如六根なり、如纔動なり。動すてに如須彌山なるかゆゑに、不動また如須彌山なり。たとへは雲をなし水をなすなり。
断除煩悩重増病。従来やまふなきにあらす、佛病祖病あり。いまの智断は、やまふをかさねやまふをます。断除の正當恁麼時、かならすそれ煩悩なり。同時なり、不同時なり。煩悩かならす断除の法を帯せるなり。
趣向眞如亦是邪。眞如を背するこれ邪なり。眞如に向するこれ邪なり。眞如は向背なり、向背の各各にこれ眞如なり。たれかしらんこの邪の亦是眞如なることを。
隨順世縁無罣礙。世縁と世縁と隨順し、隨順と隨順と世縁なり。これを無罣礙といふ。罣礙不罣礙は、被眼礙に慣習すへきなり。

今月の所感

img_2815-1.jpg今月の参禅会は、翌日に緊急事態宣言が全面解除されるとの情報が流れていたこともあり、参加者は先月よりも多く9名でした。参加者は全員マスクをしていましたが、受付に手を除菌するためのハンドジェルを置いてあるにもかかわらず、どなたも使用されていませんでした。来月からは手の除菌を徹底したいと思います。

先月までの「空華」の巻については、空華とは何たるかについての道元禅師の深い洞察が示されていました。今月は石霜慶諸の俗弟子である張拙秀才の頌をとりあげ、道元禅師の解説がなされているところです。
張拙(生没年不詳)は五代宋初めの居士で、石霜慶諸の弟子の禅月大師貫休の指示を受けて石霜慶諸に参じ、問答数番、たちまち吾を得た人です。秀才とは科挙の試験をパスした人のことです。
石霜慶諸(807~887)は薬山惟儼の法嗣の道吾円智に参じ、その法を嗣いだ人です。慶諸は湖南省の石霜山に留まること20年、その間、修行僧と共にひたすら坐禅し、横にならず、そのさまが丁度木の切り株のようであったので、枯木衆と称されています。なお石霜慶諸は洞山良价禅師とは法の上での従兄弟となります。
禅月大師貫休(832~912)は詩僧として名高く、書や画にも優れた才能をもち、遊化して僧俗の間に交友をもち、ことに呉越王銭に礼遇を受け、禅月大師と号されました。椎名老師はかつて貫休の詩について研究されたことがあるそうです。なお禅月大師貫休は応夢羅漢をよく描いたことで知られ、宋代以降、禅月様式といわれる迫力ある羅漢図が多く描かれています。
「空華」の巻で取り上げられている張拙の頌は、『宗門聯燈會要』巻22の張拙秀才の章に見えるものです。
img_2803-1.jpg霜問、「秀才何姓」。公云、「姓張名拙」。霜云、「覔巧了不可得、拙自何來」。公言下有省、乃述偈云、「光明寂照徧河沙、凡聖含靈共我家。一念不生全體現、六根纔動被雲遮。斷除煩惱重增病、趣向真如亦是邪。隨順世緣無罣礙、涅槃生死是空華。」
張拙が禅月の指示で石霜慶諸に参じた時、石霜が張拙に名前を問うと、張拙は「姓は張、名は拙」と答えました。次に石霜が「巧みなものをさがし求めたが得られなかった、あなたの名の拙は一体どこから来たのか」と問うと、張拙はハッと悟ったのです。そこで悟りの心境として、今回の頌が述べられました。なお、この頌に関する解説は、「空華」の巻で述べられた以外、他では全く見当たらないと椎名老師は仰っていました。
第一句の光明寂照遍河沙(光明寂照、河沙に遍し)について、道元禅師は「この光明あらたに僧堂佛殿廚庫山門を現成せり」と拈提されています。光明とは佛性であるとご老師は仰っていましたが、この語句は「光明」の巻で雲門の語として紹介されています。
ここで注目したいのが、6句目の趣向真如亦是邪(真如に趣向するも亦た是れ邪なり)です。張拙は真理に向かおうとするのも邪(まちがい)であると言っているのです。真理を肯定するのが何故誤りなのでしょうか。
道元禅師はこの句に関して、真理を否定するのは誤りであるが、さりとて真理を肯定するのも誤りである。即ち真理は肯定否定を超えたそのものであり、肯定否定を超越したものは真理なのだと拈提されています。そこで張拙の「真理を肯定することは誤りである」ということは、これまた真理に他ならない言われているのです。ご老師は「この邪の亦是眞如なること」は重要な言葉であると言われましたが、正直、今一良く分からないところです。
img_2812-1.jpg次の隨順世縁無罣礙(世縁に隨順して罣礙無し)は、世の中の縁は、人があって世の中の縁が随うのかと思うだろうが、さにあらず、ここでは世の中の縁と世の中の縁とが随順するのであり、随順と随順とが世の中の縁をなしている。ここには一切人間の係ることはないとご老師が仰られていました。
道元禅師はこのことを無罣礙、即ち邪魔するものはないと示されています。また罣礙するとか罣礙しないとかというのは、法眼文益が言った「被眼礙」を学び習慣づけることだと示されています。「被眼礙」とは眼に礙えざれることですが、これも『宗門聯燈會要』巻26の法眼章や『従容録』第38則「臨濟真人」の頌の評唱などに見えるお話です。
法眼が井戸を開いた時に井戸の泉眼(水の湧き出るところ)が沙で詰まっていた。そこで僧に、「泉眼の通ぜざるは、沙に塞へらるる。道眼の通ぜざるは甚麼物にか礙へらるる。」と僧に問うた。しかし僧は答えることができなかったので、法眼が代わって「被眼礙」と答えました。
井戸の水が湧いてこないのは、砂が泉眼を塞いでいるからですが、人の般若の智水が湧いてこないのは、擬議分別が道眼を塞いでいるからなんですね。このことをよくよく学ばなければなりません。

「空華」の巻のご提唱が終わり今月も新型コロナウイルス感染拡大防止のため、茶話会は行われませんでしたが、ご老師と五十嵐年番幹事から次のようなお知らせがありました。

ご老師からのお知らせ

・延期となっていた「弁栄展」が、令和2年5月27日(水曜日)から令和2年9月30日(水曜日)まで開催されることになりました。
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五十嵐年番幹事からのお知らせ

・6月7日(日)に予定していました一日接心は延期いたします。新型コロナウイルス感染が収束した段階で、再度実施時期を検討します。
・自由参禅は緊急事態宣言が全面解除されたら再開いたします。

今月の参加者 9名

最終更新日 ( 2020/05/27 水曜日 17:00:27 JST )