令和三年四月降誕会報告 プリント
img_2966.jpg-1.jpg令和3年4月8日午後2時からお釈迦様のご生誕を祝う降誕会が、参禅会役員のみが参加して行われました。本堂には花御堂が安置され、中には右手を上げ左手を下げた小さな誕生佛が立っておられました。
午後1時過ぎに配役にあたる方々が集合し、早速明石和尚からご指導をいただきながら法要のリハーサルを行いました。配役は導師が明石和尚、先導は小畑代表、殿鍾が松井さん、維那は杉浦さん、侍者は佐藤さん、侍香が山桐さん、副堂は五十嵐が当たりました。
午後2時に導師一行が入堂し、明石和尚が釈尊生誕を讃える拈香法語を読み上げられ、続いて普同三拝、般若心経一巻を諷誦し、普同三拝した後、退堂されました。
次に開経偈を全員でお唱えする中、明石和尚が入堂され、降誕会のご法話がありました。ご法話のテーマは人生百年時代を迎えて、どのように生きるかについてでした。
今までは20歳前後までが学業時代、それから60歳までが仕事の時代、60歳以降から晩年までを静かに過ごす時代でした。しかしこれからは年金財政が厳しく、定年延長で60歳過ぎても仕事・仕事に追われ、静かに晩年を過ごすことができなくなるかもしれません。
img_2969.jpg-1.jpgそれはともかく、仕事を終えた後の長い余暇人生を如何に意味ある人生として過ごすか、言い換えると如何に自己実現を図るかが問われる時代となりました。そこで参考となるのが江戸時代の俳人・随筆家であった神沢杜口(かんざわとこう)という人物です。
神沢杜口は宝永七年(1710)に京都で生まれ、86歳という高齢で寛政七年(1795)に生涯を閉じました。杜口が85年の生涯を送った時代は江戸時代のほぼ中期にあたります。
11歳の時に京都の神沢家の養子となり、家付き娘と結婚します。20歳の頃に養父の跡を継いで京都町奉行所の与力となります。今でいう年収1000万円クラスの公務員というところです。その後、目付に昇進しますが、目付とは旗本たちを観察する役職で、今日の上級管理職にあたります。
杜口は役人としてのサラリーマン時代の心得として、表の勤務中の慎みだけでなく、裏の勤務外を慎むことが大事で、それには謡曲・俳諧・囲碁などの趣味をもつこと、今日流にいえば趣味をもつことをすすめています。彼はそれを「陰の慎み」と言っています。
さらに杜口は気分転換のすすめをあげています。仕事のことばかりに心を遣い過ぎると、かえって仕事の進め方に迷い判断を誤ったりする。そのような時は気分転換をして気を養えば、心は爽快になり、物事の道筋もはっきり見えてくると言っています。この「陰の慎み」と「気を養う」の二つは、今日のサラリーマンにも十分通用する処世術だと思います。
img_2970.jpg-1.jpg役人として勤務すること20年、40歳頃に病弱を理由に退職して、娘婿に跡を譲って後半生の隠居生活を始めます。サラリーマン時代の前半生は堅実に仕事をこなす地味な存在でしたが、サラリーマンを辞めてからの後半生には、才能をいかんなく発揮し、自分のライフスタ入りを実現した人です。
娘婿に跡を譲って引退し、家禄の一部を受け取り、今日の年金として生活の資に当て、経済的に生活の安定を図っています。44歳の時に妻に先立たれますが、以後は独身をとおし、しかも婿養子一家とは同居せず、世間や家族に煩わされない自由な隠居生活を選択しました。そして江戸時代の第一級の資料といわれる大著『翁草』二百巻と『塵泥』五十巻の著作の編述と俳諧に没頭するのです。
『翁草』二百巻は杜口82歳の時に完成したライフワークそのものです。いわゆる随筆等ですが、純然たる随筆だけでなく、成書をそのまま筆者しているものも多く、随筆というより叢書に近いものです。杜口の生きた当時の政治・社会・文化・風俗全般を網羅的に情報収集し書き込まれており、登場人物は将軍から商人・百姓など、果ては遊女・犯罪にまで、あらゆる階層の老若男女に及びます。話題も戦争・祭礼・災害から日常的な衣食住・医療など生老病死に関わる話から、詐欺・密通など人間の欲望・愛憎にまつわる人生全般の出来事にわたっています。いわば「江戸版インターネット」ともいえる書物です。
例えば、あの森鴎外の名作『高瀬舟』や『興津弥五右衛門の遺書』の素材は、この『翁草』から得られたものです。また、杜口自身の人生体験から直に体得した「知足」思想が語られています。足るを知る生き方は「いき」な生き方につながるが、ものに執着し貪る生き方は「野暮」な生き方につながります。今日の低成長とコロナ禍の日本で最も必要なのは「知足」の思想と「いき」な生き方ではないでしょうか。
ところで『翁草』の中で特筆すべきものとして、天明八年(1788)正月晦日の早暁に京都の団栗図子から出火し、翌日にかけて燃え続け、京都をほとんど焼き尽くした「天明の大火」の一部始終を丹念に記録した「洛陽大火」があります。杜口79歳の時の記録です。
杜口の記すところによれば、「正月晦日寅の刻(午前5時)より翌二月朔日(1日)卯の下刻(午前7時半)まで昼夜十三時(26時間)の間に、東西凡そ十八九町(1800~1900m)、南北凡そ一里二三町(4200~4300m)焼け、町数凡そ千五六百町、長延(長さにして)四十里(16㎞)余」が焼失したのです。千年の都を誇っていた京の町は、たった二日の間に焼け野原になってしまいました。この大火では杜口の家も火災から免れることはできず、書き留めていた『翁草』の原稿百巻分が焼失してしまったのです。
img_2975.jpg-1.jpgこの未曽有の大災害についての詳細な公式文書はありません。79歳の一人の老人がその現場に立ち、火元についてや時々刻々と変わる風向きやどこに飛び火したのかなど、出火から最後の余燼が消えるまで、「いつ」「どこ」が焼けたか、火災の進行状況を逐一具体的に記録しているのです。江戸時代の大火の資料として、このように正確に記録したものはないと言われています。杜口が残した記録の中で最も驚かされるのは、杜口自身が描いた焼失図面です。二丁(4頁)にわたって描かれた図面には、主要な建造物が記されており、火元あたりは細かい町名が書かれており、この地図の上に大火で灰塵と化した地域の境界線がしっかりと朱色の線で記されているのです。これは杜口が実際に火災現場をくまなく歩き、しっかりと観察したからできたものなのです。
杜口は自宅が焼け、長年か書き留めていた『翁草』の原稿を焼失したにもかかわらず、焼け跡を歩き回り、大火の情報を細大漏らさず蒐集し、自身の罹災体験を織り交ぜ、災害の実況をドキュメンタリー風にルポルタージュし、焼失した町名、邸館、寺社などを克明に記録し、後世に貴重な資料を残したのです。今でも79歳と言えば高齢の老人なのに、江戸時代にこのようなスーパー老人がいたものだと感心するところです。
阪神淡路大震災や東日本大震災の時に、その惨状を冷静に観察し記録した老人が果たしていたでしょうか・・・・
杜口はまた若い時から俳諧を愛し、与謝蕪村とも親交がありました。健康面では前半生は病弱でしたが、養生に心掛け、後半生では歩くことこそが養生とばかり、老いてもひたすら歩いています。80歳になっても一日五~七里(20~28㎞)歩いて疲れなかったそうです。杜口にとって生きることは、書くことと歩くことだったと言っても過言ではないでしょう。
生死の覚悟も常日頃のことで、臨終に際して遺言したり辞世の句など無い方がよいと言って、「辞世とはすなわち迷い唯死なん」と、静かに眠るが如く息を引き取ったそうです。
このような神沢杜口と似たライフスタイルの人物として伊能忠敬があげられます。杜口が入り婿であったように、忠敬も入り婿でした、杜口の前半生が京都の町奉行所の与力であったように、忠敬の前半生は佐原の名主でした。
杜口は江戸時代の第一級の史料といわれる『翁草』二百巻という大著を完成させました。忠敬も50歳で隠居して日本全図を完成するという大業を成し遂げています。二人とも人生の後半に「好きなこと」をやろうと目標を立て、前半生はそのための準備をしっかりと整えていたということです。
以上は明石和尚の法話に『足るを知る生き方―神沢杜口「翁草」に学ぶ―』(立川昭二著:講談社)を参照してまとめたものです。今回も明石和尚は我々の知らない人を発掘し知らしめてくださいました。次回はどのようなテーマが話題になるのか楽しみです。
明石和尚のご法話の後、釈尊降誕報恩の坐禅を一炷行い、そのあと筍堀を行いました。

最終更新日 ( 2021/04/14 水曜日 12:12:35 JST )
 
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