平成三〇年一二月成道会報告 プリント
img_1570.jpg-1.jpg第36回成道会が12月2日(日)に行われました。午前9時から二炷の坐禅を行った後、本堂で成道会の法要が執り行われました。梅花講の御詠歌が流れる中、ご老師を導師とする一行が入堂、釈尊の成道を讃える御詠歌に続いて、ご老師による成道を讃える拈香法語が読み上げられました。
因みに三仏忌における梅花講員による御詠歌は今回が最後であると、ご法話の時にご老師から知らされました。梅花講員の高齢化等により、平成が去る共に龍泉院の梅花講も終わりを迎えることになりました(実はもっと大変な事態が起きていたのですが、それは後ほどにお話しいたします)。
   ご老師の拈香法語はこちらから聴けます>>
img_1583.jpg-1.jpg普同三拝、『般若心経』諷誦、普同三拝の後、ご老師と参禅会員との一問一答が行われました。小畑代表以下、刑部、清水、五十嵐、杉浦、牧野、原さん等が参加され、日頃の疑問や心境をご老師にぶつけ、ご老師からは当意即妙のお答えが帰ってきました。
成道会の法要の後、ご老師からご法話をいただきました。昨年は龍泉院中興の祖である第五世住職幽谷機雄和尚のお話しでしたが、今年は江戸時代初めの奇僧、風外慧薫和尚についてのお話しでした。
風外慧薫和尚(1568~1654)は群馬県碓氷郡松井田町土塩村にある原田家の生まれで、今年は生誕450年となります。生誕450年を記念して、群馬県安中市教育委員会の学習の森ふるさと学習館や小田原市の松永記念館で、風外慧薫展が開催されました。
風外和尚は達磨や布袋さんの墨絵を得意とした人で、各地に風外さんの書かれた絵や書が残されています(因みに駒澤大学図書館にも、風外さんの「指月布袋図」が一幅あり、拝見いたしました)。
曹洞宗では風外慧薫以外に風外さんとして名高い人に、風外本高さんと風外焉知さんがいます。本高さんは「蛸風外」と呼ばれるのに対して、慧薫さんは「穴風外」と呼ばれています。「穴風外」の由来は後ほどお話いたします。
img_1590.jpg-1.jpg風外慧薫和尚は幼くして生家の近くの三室山乾窓寺に預けられました。乾窓寺は茅葺屋根の曹洞宗のお寺で、今でも伽藍は古風をおびていて素晴らしいそうです。その後まもなく本寺の青木山長源寺十七世名国宗誉のもとで出家し、その法を嗣ぎ、さらに渋川市にある最大山雙林寺で本格的な修行生活に入りました。
29歳の時に諸国修行の旅に出ました。行雲流水のごとく各地を歴参し、「火もまた涼し」と火焔の中で没した快川紹喜の法嗣の物外招播に随喜するなど、名僧を尋ねて修行を重ね、禅宗教団の中では名声が知られるようになりました。
50代のころ小田原市成田の成願寺に請われて住職となりました。風外和尚の生涯で唯一の住山でした(因みに成願寺は外務大臣河野太郎の菩提寺です)。しかし住持したのはわずか3年で、住職をやめて国府津の田島村や上曽我村の山中で穴倉生活をするようになりました。このことから「穴風外」と呼ばれるようになるのですが、風外さんはこれ以降、終生穴倉生活をつづけました。
風外さんはこのころから筆を執り画を描きだしたようです。風外さんの画才は天賦のものであったらしく、人から求められると、5升の米と引替に渡していたそうです。米が尽きると画を一枚画いていたそうです。そのため風外さんの居を訪れる客が多くなり、応対の暇もなく、騒がしい状況を嫌って真鶴に移りました。田島村と上曽我村には約10年ほど滞在したそうです。
寛永5年(1628)に上曽我村を去った風外さんは、真鶴の斑石が林立する景色を好み、海を望む斷崖の穴倉に庵をつくり、ここに20年近く止居しました。庵の近くに風外さんが石でつくった天神堂があり、そばの寿塔には風外さんの作である銘が刻まれています。
落葉飜風前、榮華豈可傳。 全身知石塔、堪笑幾隨縁。
2585471.jpg-1.jpg84歳のころ、春日局の孫である小田原城主稲葉正則から懇切な招きを受け、風外さんは定められた日時に小田原城にやって来ました。しかし城内では宴会が催されており、正則はなかなか風外の部屋に現れませんでした。長時間待たされた風外さんは筆をもとめて一詩を書き残しました。
大守一国鎮、我是風外身。卒客無卒主、宜仮不宜真。
第3句と第4句は『從容録』第二則「達磨廓然」の示衆にある句です。この則は達磨と梁の武帝との意氣がピタリと投合しなかったことを説いた語録ですが、風外さんも小田原城主の稲葉正則とは意氣が合わないことを示したものと思います。
かくて浩然と風外さんは真鶴村を立ち去ることになりました。以後、伊豆の韮山の竹渓院に隠れていましたが、風外さんを慕う人が再び多く集まるようになったので、3年後、竹渓院を逃れ東海道を西へ西へと漂泊し、浜名湖の北の金指郷石岡の里に到り、破れきった単丁庵に住んでいたようです。死期を悟った風外さんは、ある日、工人を雇い青銅三百文を払って穴を掘らせ、その中に入り、工人に埋めさせて植木のように立ったまま亡くなったそうです。承応3年(1654)87歳であったと想定されています。
風外慧薫和尚は成願寺の住持をやめて穴倉生に入ってから筆を執り始めましたが、彼がどこで画を学び、習得したかは全く不明ですが、彼の墨蹟は近世禅林美術史上において高い評価を受けており、経営学者の故ピーター・ドラッガーも最初に求めた禅画が風外慧薫和尚だったことが知られています。
風外慧薫和尚に関するイベントとしては、
今年4月28日~7月16日、群馬県安中市学習の森ふるさと学習館で「風外慧薫―安中で生まれた曹洞宗禅画の祖―」
今年10月20日~11月25日、小田原市郷土文化館松永記念館で「生誕450年記念風外慧薫―洞窟暮らしの禅画僧―」
が開催されました。
来年1月4日~3月26日、神奈川県真鶴町立中川一政美術館で、「中川一政と禅~真鶴の奇僧 風外慧薫とともに~」が開催予定となっています。
また風外慧薫和尚に関する資料としては、平塚市文化財研究叢書『風外慧薫禅師とその作品』平塚市教育委員会、辻惟雄著『遊戯する神仏たち』角川書店、禅文化研究所著『禅門逸話選』上 禅文化研究所、などがあります。

img_1600.jpg-1.jpg法話の後、大悲殿に移り典座さんの真心のこもった中食をいただきました。続いて茶話会になり、ご老師から次のような衝撃的な発表がありました。
梅花講と共に私も今年で住職を終わります。来年から新しい住職に譲ります。従って来年の成道会は新しい住職のもとで行います。東堂として新しい家と法藏庫を畑のところに建てる予定で、参禅会も成道会も続けて行くつもりです。60年住職をつとめ、参禅会は47年、成道会は36回を迎えましたが、これは偏に万物に活かされてその恩恵で務めることができたものだと感じています。
この発表を聞いて会員はびっくりすると共に、これまでのご老師のご指導に深く感謝の意を抱いた次第です。
最終更新日 ( 2018/12/12 水曜日 17:51:34 JST )
 
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