平成二九年二月定例参禅会報告 プリント

今月の提唱

 

『正法眼蔵』「看經」の巻(3)

img_9125.jpg-1.jpgこのゆえに有智の知の測量にあらず、有知の智の卜度にあらず、無智の知の商量にあらず、無知の智の所到にあらず、仏仏祖祖の修証、皮肉骨髄、眼睛、拳頭、頂■(寧+頁)、鼻孔、拄杖、払子、跳造次なり。
趙州観音院真際大師因有婆子、施浄財請大師転大蔵経。師下禅床遶一帀、向使者云、転蔵已畢。使者廻挙似婆子。婆子曰、比来請転一蔵、如何和尚只転半蔵。
〈趙州観音院真際大師、因みに婆子有り、浄財を施して、大師に大蔵経を転ぜんことを請う。師、禅床を下って、遶ること一帀し、使者に向って云く、転蔵已に畢んぬ。使者、廻って婆子に挙似す。婆子曰く、比来、一蔵を転ぜんことを請うに、如何んが和尚只だ半蔵を転ずるや。〉
あきらかにしりぬ転一蔵半蔵は、婆子経三巻なり、転蔵已畢は、趙州経一蔵なり。おほよそ転大蔵経のていたらくは、禅床をめぐる趙州あり、禅床ありて趙州をめぐる、趙州をめぐる趙州あり、禅床をめぐる禅床あり。しかあれども一切の転蔵は、遶禅床のみにあらず、禅床遶のみにあらず。
益州大隋山神照大師、法諱法真嗣長慶寺大安禅師。因有婆子、施浄財請師転大蔵経。師下禅床一帀向使者曰、転大蔵経已畢。使者帰挙似婆子。婆子云、比来請転一蔵、如何和尚只転半蔵。
〈益州大隋山神照大師、法諱は法真、長慶寺の大安禅師に嗣ぐ。因みに婆子有り、浄財を施して、師に大蔵経を転ぜんことを請う。師、禅床を下って一帀し、使者に向って曰く、大蔵経を転ずること已に畢んぬ。使者、帰って婆子に挙似す。婆子云く、比来、一蔵を転ぜんことを請うに、如何んが和尚、只だ半蔵を転ずるや。〉
今大隋の禅床をめぐると学することなかれ、禅床の大隋をめぐると学する事なかれ。拳頭眼睛の団欒のみにあらず、作一円相せる打一円相なり。しかあれども婆子それ有眼なりや、未具眼なりや。只転半蔵、たとひ道取を拳頭より正伝すとも、婆子さらにいふべし、比来請転大蔵経、如何和尚只管弄精魂〈比来、大蔵経を転ぜんことを請うに、如何んが和尚、只管に精魂を弄するや〉。あやまりてもかくのごとく道取せましかば、具眼睛の婆子なるべし。
高祖洞山悟本大師、因有官人設斎施浄財、請師看転大蔵経。大師下禅床向官人揖。官人揖大師。引官人倶遶禅床一帀、向官人揖。良久向官人云、会麼。官人云、不会。大師云、我与汝看転大蔵経、如何不会。
〈高祖洞山悟本大師、因みに官人有り、斎を設け浄財を施し、師に大蔵経を看転せんことを請う。大師、禅床を下って、官人に向って揖す。官人、大師に揖す。官人を引いて倶に禅床を遶ること一帀し、官人に向って揖す。良久しくして、官人に向って云く、会すや。官人云く、不会。大師云く、我れ汝が与に大蔵経を看転す、如何んが不会なる。〉


 

今月の所感

img_9137.jpg-1.jpg龍泉院参禅会最古参のひとりである寺田哲朗さんが今月の20日にお亡くなりになられました。昨年の在家得度式では再得度を受けられましたし、かつては一夜接心などの行事にも積極的に参加されていましたし、中国仏教遺跡巡拝の旅にもご夫婦で参加されました。一時体調を崩されてしばらくお休みされていましたが、最近は体調も回復され、定例参禅会にもお見えになられていたのに残念なことです。お通夜は24日に告別式は25日に行われましたが、告別式ではご長男さんより「父は大変坐禅を大切にしていました」と、ご挨拶のお言葉があったそうです。茶話会の冒頭に、ご老師から「寺田さんのご冥福をお祈りしましょう」とのお言葉があり、一分間の黙とうを捧げました。


今月の「看経」の巻からは、経典を読むという事の意味を今までとはまた別の立場からの説明が始まります。まず趙州従諗禅師と大隋法真禅師、洞山悟本大師が大蔵経を転読することを請われた際、いずれも禅牀を下りて禅牀を一回りしたと言う、同じ話題が取り上げられています。
趙州と大隋はどちらも婆さんから淨財を施され、使いの者を通して大蔵経を読んで欲しいと依頼されましたが、趙州・大隋とも禅牀を一回りしただけで大蔵経を読み終えたと使いの者に伝えます。そのことを使いの者から聞いた婆さんは、二人とも「大蔵経を全部読んでくれるようにお願いしたのに、どうして半分しか読んでくれないのですか」と嘆いています。
婆さん達は嘆いていますが、趙州や大隋にとっては経典を読むことは禅堂の単の周りを一周することと同じことなのです。それは一体何故なのでしょうか?
img_9140.jpg-1.jpg今月の「看経」の巻の初めに「仏仏祖祖の修証、皮肉骨髄、眼睛、拳頭、頂■(寧+頁)、鼻孔、拄杖、払子、跳造次なり」とあるように、祖師方の悟りのレベルは、眼睛とか鼻孔とか拄杖とか払子など、この上なく大切なもの、つまりその人の人格そのものを現わしており、さらに、跳造次、即ち命の躍動する所、ひらめく所であるからなのです。要約すれば、祖師方のお悟りのレベルは日常の修行生活の中に現れ出ていると言ってもよいと思います。ですから坐禅堂を一回りすることは、修行の一環であり悟りのレベルを現わすことになるのです。
一方、経典を読むことは、経典に書いてある一つ一つの文字を目でたどり、何が書いてあるか、どういう意味なのかを読み取ることと考えますが、禅では経典は息を吐いたり吸ったりする日常生活を現わしたものと考えます。
以上のことから、禅師たちが坐禅堂を一回りする一挙手一投足は、一切の経典を読んだことと同じことになるのです。
このように趙州や大隋は坐禅堂を一回りして「大蔵経を全て読んだ」と言い、婆さんたちは「なぜ大蔵経の半分しか読んでくれないのですか」と言ったことについて、椎名老師は「この婆さんどもは大したものだ。坐禅堂を一回りしたことで大蔵経を半分読んだことになることをちゃんと理解している」と言われました。大蔵経を読んで欲しいとお願いした婆さんたちは、そんじょそこらのただの婆さんではないのですね。『正法眼蔵』に登場する婆さんたちは、ただの年寄と気を許してはいけません。手ごわい相手です。ところで爺さんはどうでしょうか・・・・・・?


 

松井年番幹事からのお知らせ

img_9128.jpg-1.jpg・2月12日(日)の新年会には19名の方が参加されました。
・2月15日(水)の涅槃会には9名の方が参加されました。
・4月8日(土)午後2時から降誕会が行われます。大勢の参加をいただいて盛大にお釈迦様のお誕生をお祝いしたいと思います。


ご老師からのお知らせ

・4月8日(土)の降誕会は土曜日ですので、お休みの方は奮ってご参加ください。
・陽気の変わり目ですので、体調管理には気を付けてください。

今月の司会者 小林 裕次
今月の参加者 36名
来月の司会者 佐藤修平

最終更新日 ( 2018/04/30 月曜日 10:18:03 JST )
 
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