平成二八年一二月成道会報告 プリント
img_9017.jpg-1.jpg平成28年12月4日第三四回成道会が開催されました。坐禅堂での二炷の坐禅の後、本堂に移って成道会の法要が行われました。梅花講員八人の方の詠讃の中、ご老師が入場。拈香香語、普同三拝を行い、『般若心経』を一巻諷誦。その後、ご老師との問答が行われ、「非思量とは如何」とか「百年後の風致や如何」「身心いずれをもって悟りとなす」などと舌鋒鋭く問いかけるも、「一言半句に斟酌する必要はなし」など、泰然自若としたご老師からのお答えは、簡にして要を得るものでした。
問答の後に参禅歴20年を迎えた加藤さんと久光さんへの表彰が行われ、加藤さんには「柔軟心」と久光さんには「摩尼珠」と揮毫された額が贈られました。
img_9019.jpg-1.jpg20年表彰が終わった後、ご老師から一介の乞食僧として一生を過ごしたが、良寛さまから大変慕われた大而宗龍禅師について、次のようなお話がありました。
大而宗龍禅師は名僧や高僧ではなく、『日本高僧伝』や『本朝高僧伝』などには全く記録されていない。まして単独の伝記も残されていない。住職も新潟県新発田市の観音院と岐阜県高山市の大隆寺の2ヵ寺だけです。しかし寺にはほとんどおらず、全国を放浪し乞食生活をしながら、道を伝え信仰を伝え一生を過ごされた方です。
宗龍禅師はちょうど300年前の享保二年(1717)、群馬県富岡市下丹生の農家に生まれました。地元の曹洞宗の永隣寺九世紹山賢隆和尚の下で出家し、修行が始まりました。
その後、岐阜県関市の妙応寺の悦巌素忻禅師の下で修行され、悦巌禅師が寛保三年(1743年)、新潟県巻町の萬福寺の開山となり入山するや、それに随従して参学されました。
悦巌禅師は萬福寺住山12年にして、宝暦四年(1754)金沢市の前田家の菩提寺である天徳院八世として昇住しました。宗龍禅師も師匠に伴い天徳院で修行することになりました。
souryu06.jpg宝暦六年(1756)、禅師は40歳で天徳院首座の大役を勤めました。その首座職の時、山内で捨てられた古雑巾を拾い集めて糞掃衣を作りました。その目的は首座職は僧侶として出世の始めであるから、名聞の欲を除く為であると自ら述べています。 後に布に書き記し、袈裟に縫い付けて弟子達の戒めとしました。宗龍禅師が名聞を嫌い、大寺に住職することを忌避する考えは、すでにこの頃からあったものと思われます。良寛さまは宗龍禅師を大変慕われましたが、宗龍禅師のこのような生き方があったからと思われます。
翌宝暦七年(1757)、悦巌禅師の法を嗣ぐことを許され、続いて永平寺に登り瑞世の式を済ませ、当時の曹洞宗の主流とも言うべき月舟・徳翁門下の宗匠となったのでした。
新潟県新発田市に新しくできた龍華山観音院の開山に、当地の出身である悦巌禅師が招かれたので、宝暦一〇年(1760年)に天徳院を退院して観音院に帰居しました。しかし翌々年の3月13日、悦巌禅師は67歳にて示寂されました。そこでやむを得ず宗龍禅師が後席を嗣がれ、46歳で観音院第2世住持となりました。
souryu08.jpg観音院2世を嗣がれた宝暦一二年(1762)冬、新潟県新発田市香伝寺に於いて、宗龍禅師は初めて安居助化師を勤められました。助化師とは、安居百日間住職を補佐し、安居修行者の指導を任務とする大役で、主に有縁高徳の禅匠が請われてその役職につきました。この時の安居参加者は16名でした。 また翌宝暦一三年(1763)夏、群馬県高崎市の長松寺に於いて第2回目の安居助化師を勤められ、68人の雲水が集まりました。また授戒会が同じく長松寺で開催され、第1回目の戒師を勤められ、297名の戒弟に戒を授けられました。
これを皮切りに宗龍禅師は生涯で33回の安居助化師を勤められましたが、これは出家者として最高の仕事であり、最大の人格者でないと勤められないお役であります。一方、在家一般の方々を指導する授戒会の戒師は生涯で64回行いました。これは曹洞宗の歴史の中で2番目に多い方です。一番多いのは福井県の方で90何回か戒師を勤められています。
宗龍禅師はこのように全国を修行道場と定めて、出家者を修行させる結制の助化師を勤め、また一般在家への受戒会の戒師さまを勤めるなど、全国を歩いて布教に務められた高徳な方です。
明和三年(1766)冬、群馬県藤岡市の龍田寺において初めて石経供養が行われ、石経供養塔が建立されました。石経とは石にお経を彫るもので一種の写経ですが、石工によって彫られた石経を岩窟に収めて供養するのです。
明和五年(1768)冬に、埼玉県秩父市の廣見寺さんが宗龍禅師に石経供養をしたい旨を申し出て、8人の石工が一年かけて3間四方の石室を掘り、石経を納めました。現在は埼玉県の文化財に指定されています。
翌年の明和六年(1769)には神奈川県愛川町の勝楽寺で16回目の授戒会を行いましたが、その時、良寛さんと一緒に修行された岡山県玉島の円通寺の仙桂和尚がお手伝いとして参加されています。これは宗龍禅師が行った結制と授戒会の参加者について、岐阜県高山市の大隆寺に克明な記録が残っていることにより判明したものです。
mdup_dsc4480_.jpg明和九年(1772)には岐阜県下呂市の禅昌寺に於いて授戒会を開催しました。禅昌寺は臨済宗のお寺ですが、宗龍禅師は地元の大地主であった中川武右衛門の帰依を受け、少ヶ野(しょうがの)の大岩石とその周辺の土地を喜捨されたのです。因みに少ヶ野の名の由来は、昔、恵心僧都源信がこの大岩の上で念仏をしていたことから念仏岩といわれ、この地に聖観音をお祀りしていたことから、訛ってショウガノと言う地名になったと言われています。
宗龍禅師は、この念仏岩を穿ち、石室を作り、そこに授戒会に参加した人々の戒名とこの事業に協力した人々の戒名を石書して奉納しようとしたのです。工事は3人の石工によって進められ、1年3カ月を費やして、深さ6尺の石室ができあがりました。この中に、弥勒菩薩と百余巻の経文、そして願主の戒名を石書して納めました。また岩上を唵摩訶山(おんまかさん)と名付け、山号の由来となった十一面観音をお祀りしました。
宗龍禅師は新潟、千葉、埼玉、群馬、江戸、岐阜などで授戒会を催しましたが、天明二年(1782)夏、岐阜県高山市の大隆寺で大般若経六〇〇巻を一字一字全部読む真読を行いました。大隆寺はもともと臨済宗のお寺でしたが、無住になっていたので、安永五年(1776年)宗龍禅師は臨済宗大本山大徳寺の塔頭である本寺金龍院より、百両で大隆寺を譲り受けました。その目的は大隆寺に般若台を建設し大般若経真読道場にしたかったからでした。
千葉県との縁では、天明三年(1783)には千葉県鋸南町の日本寺で宗龍禅師を迎えて安居と授戒会が行われ、五百羅漢の石窟に石経を納めたそうです。同じく天明三年に君津市の廣太寺で、天明四年(1784)に富津市の東照寺と船橋市夏見の長福寺で授戒会が行われました。10月23日から29日にかけて行われた長福寺での授戒会の際には、龍泉院十九世とお檀家の4人が参加されています。
img20140115191138757.jpg天明五年(1785年)に観音院で開かれた夏安居には良寛さんが香司(時間を知らせる職務)として参加されました。この安居は、宗龍禅師にとっては33回目の最後の安居であり、良寛さまは運よくこの安居に参加し、宗龍禅師よりその宗風を参学することができました。そして、良寛さまのその後の生き方に大きな影響を与えました。良寛さんが弟子の貞心尼に宛てた書簡には、「既に隠居の身であった宗龍禅師になかなか会うことができなかったので、隠寮の庭に忍び込んで、手水鉢の上に置文をしました。朝、用足しに起きた禅師は、その文を見て、良寛さまを部屋に呼び、いつでも問法に来ても良いとお許しになりました」と書かれていたそうです。
宗龍禅師は自らを「常乞食僧」を称して乞食の生涯を送られました。また、大寺に出世する事も嫌いました。良寛さまはこの清貧にして飄々とした禅風に親しみを覚え、心の師として敬慕し、自らも乞食の生活を実践したものと思われます。
天明八年(1788)観音院に帰り、64回目の最後の授戒会を行いました。そして、翌年寛政元年(1789)8月13日、観音院において73才のご生涯を閉じられました。
なおこの文を作成にあたっては、廣見寺さんのHPにある「宗龍禅師の革新性 大而宗龍禅師顕彰会代表 町田廣文」を参考にしました。

最終更新日 ( 2018/04/30 月曜日 10:27:40 JST )
 
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