平成二七年一二月成道会報告 プリント

img_7901-1.jpg一二月六日第三三回成道会が行われました。成道会はお釈迦様がお覚りを開かれた事への報恩として、禅宗の寺院では広く行われています。
龍泉院では参禅会員が報恩の坐禅を二炷坐り、その後梅花講講員と一緒に報恩の法要を行いました。
法要の後に恒例の老師との問答が行われました。成道会で老師と問答が始ってから数年経ち、参禅会員から老師への問いかけは大分板についてきました。

問「隻手の音聲とは如何」
答「はるか大自然の内にいつも響き渡っております」
問「釈尊にお目にかかりたいと思っていますが、どこにいけばお目にかかれるのでしょうか」
答「釈尊は歴史上の人であります。あなたの心の中には佛が住んでおります。それを探すことであります」
問「このごろ山門の風致は如何でございますか」
答「お陰様で風光きわめて明媚錦秋、初冬の小春日和。小畑さんのお蔭であります」
等、大変聴き応えのある問答が展開されました。

    問答についてはこちらからお聴きになれます>>

img_7889-1.jpg問答の次には、今年参禅歴二〇年を迎えられた松井さんと美川夫妻への表彰が行われました。老師から松井さんには「他非吾(他は吾にあらず)」と揮毫された額が贈られ、美川さんには「両箇月(両箇の月)」と揮毫された額が贈られました。
松井さんは毎年一夜接心や成道会で典座として活躍されていらっしゃいます。そこでご老師は、道元さんが船中で阿育王寺の老典座さんから浴びせられ一瞬たじろいだこの語句を、松井典座に贈られたのではないかと思います。
img_7892-1.jpg美川さんに贈られた「両箇月」は、この後の峨山禅師に関する法話でもご説明がありますように、瑩山禅師から峨山禅師に与えられた公案です。しかし美川さんにこの語句が贈られたのは、美川夫妻が参禅の時は何時もご一緒で仲睦まじく、そのお姿が両箇の月のように思われるのですが如何でしょうか?

二〇年顕彰が終わった後、今年の一〇月に六五〇大遠忌を迎えられた峨山韶磧禅師についてのご法話をいただきました。峨山禅師は一一歳で密教寺院に入り、一六歳の正応四年三月八日に比叡山にのぼられました。二二歳の時に京都で瑩山禅師に拝謁し、法戰一場瑩山禅師に問答を挑みました。「吾が宗、天台祖の曰く、脱體の機情、妄想を得ず、また法性を存せず、此れ吾が宗の軌躅なり、豈に教化の旨と異ならん」と、自身が学んでいる天台の教学と禅の違いについて真っ向から質問を試みました。しかし瑩山禅師はにっこり笑って何も答えませんでした。この瑩山禅師との初相見は峨山禅師に強烈な印象を残し、その後天台宗を離れて禅に帰投されることになりました。
gasanzenji-1.jpg峨山禅師は大乗寺にあって住持の義介禅師やその会下の首座瑩山禅師の指導を受け、日々辨道精進されていました。ある日瑩山禅師から「你、月に両箇有るを知るや」とたずねられました。峨山禅師は月に両箇あることがわからず、素直に「不是なり」と答えられた。「月に両箇有ることを知らざれば、洞上の種草と成ること能わず」と言われた峨山禅師は、修行が未熟であることを恥じ、更に修行を重ね、啐啄の時期が到来した二年後の正安三年一二月二三日の夜半、瑩山禅師の弾指の音を聞かれて大悟されました。
「両箇月」の公案とは、月は一つ、真理も一つ、この絶対の真理が「両箇有る」というのは、真理を唯一と見、絶対と見る偏執に陥っている自分に気づき、これを打破し「出身の活路」を見出すことだと思います。
大悟された峨山禅師はその後日本中を行脚して修行をし、瑩山禅師の後を継いで總持寺の住職になりました。永光寺の住職も兼務し、五〇キロ以上はなれた總持寺と永光寺の間を繁く往復されていました。因みに總持寺と永光寺の間の峨山道では最近峨山トレイルランが開催されています。
四二年間總持寺の住職を務められ、門下には源翁心昭や峨山二五哲と呼ばれる数多くの優秀な弟子を輩出し、曹洞宗発展の礎を築かれ、貞治五年に九二歳で遷化されました。



最終更新日 ( 2017/01/05 木曜日 16:59:21 JST )
 
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