平成二六年一二月成道会報告 プリント
img_6361-1.jpg第32回成道会が12月7日(日)に行われました。二炷の坐禅の後、本堂で成道会の法要が行われ、続いてご老師から「女房をもつまい」「金をもつまい」「寺をもつまい」と三誓願を立てられた澤木興道老師についてのご法話をいただきました。
澤木興道老師は昭和40年(1965)12月21日にご逝去され、今年が50回忌にあたります。椎名老師は駒澤大学で学生時代に澤木老師から直接坐禅のご指導を受けられたそうです。澤木老師から直接ご指導を受けられた方はもうわずかな方々ではないでしょうか。そのような椎名老師から澤木興道老師について次のようなお話を伺いました。
澤木老師は明治13年(1880)6月16日に三重県津市新東町の人力車職人多田惣太郎の四男として誕生し、幼名は才吉と呼ばれていました。
img_6371-1.jpg明治17年に母しげ死去、明治20年2月に父惣太郎死去により一家離散となり、父方の叔母ひいの方に預けられましたが、明治20年8月ひいのの夫が死去したことにより、8歳の才吉は澤木文吉の養子となりました。
澤木文吉は遊郭の一角に住む表向きは提燈屋でしたが、裏稼業はばくち打ちでした。才吉が9歳の時、女郎屋の二階で急死した50代の男性の奥様が、「なぜこんなところで死んだのよ」と泣き叫ぶのを聞いて大きなショックを受け、「人間は隠し立てができないものだ」と思うと共に、無常観を感じたそうです。
そんな劣悪な環境でしたが、たまたま隣人に森田岩吉、号は千秋という清廉潔白な方がおられ、四書五経などを教わりました。千秋は才吉より六つ年上でしたが、肩書や金銭や食物や享楽の他に、人生の本当の世界があることを教えてくれたそうです。
13歳で才吉は尋常小学校(四年制)を卒業しました。ばくち打ちの手伝いなどをしていましたが、16歳の時家出をして大阪で何か商売をしようとしました。しかし一週間で連れ戻されました。でも才吉はそのまま落ち着く気はなく、再度家出をする機会をうかがっていました。そのような時、日頃説教を聴聞していた真宗のお坊さんに相談して、永平寺に行くことを勧められました。
27銭とお米二升と提燈一つをもって家出をし、四日四晩かけて津から永平寺に向いました。永平寺に着いたものの修行僧としては受け付けてもらえず、二日二晩坐り込んだ末、ようやく直歳寮の人足として雇われることになりました。
95k-daij1-1.jpg明治30年才吉18歳の時、永平寺で修行していた天草の僧の紹介で、天草宗心寺に向うことにしました。天草までは無銭で托鉢しながら歩いて行きました。宗心寺の沢田興法和尚のもとで出家得度し、澤木興道と名乗るようになりました。興法和尚は声明の名人でしたので声明などを習いましたが、澤木老師が声量豊かなことは一つには興法和尚の指導による賜物だそうです。声明以外にも宗心寺では仏教書などを猛烈に勉強し、また坐禅にも打ち込み睡眠は2~3時間ほどだったそうです。
宗心寺で一人で坐禅をしていた時、一人の婆さんが澤木老師の坐禅の姿を見て拝まられました。これを見た澤木老師はこれは自分が拝まられているのではなく、自分の中にいる仏さんを拝まられているのだと観じ、坐禅はそれほどの偉力があるものだと信ずるようになったそうです。
明治37年澤木老師は日露戦争に出征しましたが、重傷を負い帰郷し療養にあたりました。
27歳の時地元津市の真宗高田派専修寺専門学校に入学し、その後法隆寺勧学院に移り唯識学を中心に学び、またお袈裟の研究にも取り組みました。
34歳の時、兵庫県豊岡の瑞峯寺で丘宗潭老師に請われて隨身することになりました。
35歳の時、法隆寺に近い空寺の成福寺に住み込み、たった一人で三年間ぶっとうしで朝の2時から晩の10時まで坐禅に打ち込みました。食事の時間も惜しんで、一日一回とし、毎日ご飯と梅干と大根おろしばかりだったそうです。
37歳の時、熊本の大慈寺で丘宗潭老師のもと僧堂講師となり、雲水の指導に当たりました。さらに大慈寺時代には熊本の五高(現熊本大学)の学生との交流があり、学生からの純粋な質問を受け大変勉強になったそうです。
澤木老師が五高へ講演に行かれた時、開口一番「諸君から色気と食気を除いたら何が残るか」とズバリかましたところ、学生はびっくりして、この和尚はなかなかわったことを言うぞと、大変人気者になったそうです。
ところがある朝のこと、一人の学生が澤木老師のところに飛び込んできて、「和尚さん、私はいま女郎買いに行ってきての帰りです。私は人間に性欲のある限り女郎買に行くのは当たり前だと自信をもっていました。しかし精力を出し果してしまったら、何だか急に自分と言うものに自信を失ってしまいました。私は一体全体これからどうしたらよいでしょうか」という相談を持ちかけられたのです。
このような自然児の五高生の何の遠慮会釈もない質問に澤木老師は、今までの教団内での指導のやり方では何の力img_6375-1.jpgにもならないことを痛感させられました。このような学生とは、従来の既成宗教の型から抜け出して、素っ裸になり、つくりものでない真実の自分となって取り組まなければ、正しい答えを出すことができないとして、自分造りの再出発を強いられたのです。兵隊以来、勉強と坐禅で神経が細くなっていた澤木老師も、五高の学生との交流で見事に作り直されたのです。
当時の五高の学生が「和尚を偉くしてやったのは俺たちだ」と威張っていたそうですが、澤木老師もそれには「ハイハイ」と頭を下げたそうです。
昭和10年澤木老師56歳の時、当時の駒澤大学大森学長の要請を受け駒澤大学の教授に就任され、また大本山總持寺の後堂にも就任されました。昭和38年駒澤大学を辞任され、京都の安泰寺に隱居され、昭和40年12月21日、86歳で逝去されました。
椎名老師は最後に「花月一窓」揮毫された澤木老師の直筆の書をご披露されました。


最終更新日 ( 2014/12/23 火曜日 21:13:37 JST )
 
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